筑前4



柑子岳城舞岳城秋月城福嶽城岩屋城

柑子岳城

福岡市西区【最寄り駅】筑肥線今宿駅

天文3〜4年(1534〜35)大内氏家臣仁保宮内少輔が築城し、梅月頼致、致定親子が城番で、 天文7年(1538)大友氏の城となると、 大友氏家臣、臼杵新助鎮続を城代とし、元亀2年(1571)臼杵進士兵衛鎮氏が城代になるも原田了栄を攻めたが、 かえって反撃にあって討ち死にした。その後、小金丸氏などが城番、 天正5年(1577)木付少輔鎮実が城督となったが、天正7年(1579)原田氏攻められ、放棄することとなった。 (福岡県の中近世城館跡IIより)
柑子岳の山頂のある北の郭と、南の郭に分かれている。 北の郭は北側へ下った所に堀切が2箇所あったようだが、縄張り図のコピーした紙が汗で判読出来なくなり見逃してしまった。 南の郭は北側の切岸が良く残っている。 また東側に下った郭の場所がなかなか見つけにくい。 それらしい場所へ下れたが、竹や倒木で荒れており、畝状竪掘を2本程確認できたが、それ以外結構見逃してしまった。 東側にはかなりの遺構が残っているようだが、それ以外の現在の登山道のあるエリアには少ないのは消滅したのか、何でなのか疑問が残った。


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舞岳城

前原市【最寄り駅】筑肥線筑前前原駅

高祖城の原田氏の家臣、波多江氏などの居城。
今は笹山公園としてかつての面影を見出すことは困難。


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秋月城

朝倉市(旧甘木市)【最寄り駅】甘木鉄道甘木駅・西鉄甘木線甘木駅

黒田長政の3男長興が秋月藩5万石を興す。黒門は秋月氏の本城であった 古処山城の搦手門と云われる。
維新後の秋月の乱でも有名。
現在は秋月中学校と垂裕神社の境内となっている。


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福嶽城

朝倉市(旧甘木市)【最寄り駅】甘木鉄道甘木駅・西鉄甘木線甘木駅

古処山を本城とする秋月氏の24支城の1つ。江戸期に入ると一国一城令で 廃城となったが、鐘櫓が置かれ『時櫓』と呼ばれた。 福岳美濃守が城主だった。(現地説明板・福岡県中近世城館遺跡等詳細分布調査報告書1より)
観音山山頂には現在ドコモの無線局があり、建設前に発掘され、その後破壊されたようで、 遺構らしい物は残っていない。


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岩屋城

太宰府市【最寄り駅】西鉄大牟田線都府楼駅

文明10年(1480)頃、大内氏の軍事的拠点として築城された。 大内氏滅亡後、天文年間(1532〜55)には大友宗麟が宝満・岩屋に城督を置き、 毛利氏からの攻勢から立花山城の立花鑑載を助けるために、 一万田家から養子に入った高橋三河守鑑種が入るも、宗麟に叛き、 小倉に移封となり、その後吉弘家から高橋鎮種が養子として入った。 天正14年(1586)北上する島津の大軍に攻められ、763名全員討ち死にした。 (福岡県の城、福岡県の城郭より)
以下、太宰府市史のエリア分けに従って画像を配置する。


本丸・二ノ丸・三ノ丸エリア

本丸には土塁が北側にあり、南側は展望が開けている。 二ノ丸の方へ下ると堀切で、西側の大野城へ繋がる曲輪との間を断ち切っている(左2画像)。 二ノ丸へは車道を一旦横切り、下ったところにあり、 高橋紹運の墓がある(左3画像)。墓の南側から堀切(左4画像)を挟んで三ノ丸となる(右端画像)。

IIIエリア

武藤資頼・資能の墓から磨崖仏を経由する尾根上にある。 やや登山道で削られている。途中、萩尾大学の墓がある。 竪堀(左画像)や堀切(右画像)が残っている。また腰曲輪らしい小さな平坦地も多数あった。 そのまま登った所が、二ノ丸となる。

IVエリア

東観世公民館の裏手の山を公園から登る。 (公園で遊んでいた小学生6人も興味を示し、なぜか同行することになった。) IIIエリアへの合流点までは行かなかったが、 平坦地と堀切3本を確認した。こちらは登山道でもないため遺構の残存状況は良い。 ただ荒れ気味である。 左から順に下から存在する堀切である。2本目の堀切が一番深かった。

Xエリア

九電の送電線の管理道から行ける。 磨崖仏からも行けるようではある(未確認)。 こちらは平坦地と切岸が良く残っている。


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