慶長19年(1614)頃から鍋島勝茂により築かせた。
須古城在城の龍造寺信周・信明親子を意識した、場所だったと推測されている。
(『佐賀県の中近世城館 第3集』より)
秀林寺に猫大明神という化け猫騒動とも関係の是非が分からない塚も残る。
農業高校横には当時の水堀の跡の一部として残っている。
陣内大和守が築城したといわれるが、九州探題の今川氏も南北朝の頃に駐留したことがあり、関連性がある。
神代勝利の父宗元を娘婿とし、天文14年(1545)4月龍造寺剛忠に攻められ落城し、山内へ逃走した。
勝利全盛期の頃に、前線基地となり、長良が居城したこともある。(風雲肥前戦国武将史より)
金立公民館の建設に伴い発掘調査され、土塁を整備復元して残っている。
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