香坂氏は承久3年(1221)の乱の戦功で佐久の滋野一党としてこの地を与えられた地頭の一人で、私牧を経営し?栄した。
文応年中(1260)香坂安房守が築城したというが定かでない。
建武3年(1336)香坂心覚は南朝方して兵を挙げ北朝方の攻撃を退けたという。
応永6年(1399)の大文字一揆では香坂宗継が一揆軍として戦い、守護の小笠原長秀を京都に追いやった。
文永年間(1469〜86)には守護小笠原家の内紛で伊那の小笠原氏に攻められて小笠原長朝がここでかくまわれた。
弘治2年(1556)香坂宗重は武田信玄により松代へ移され、馬場信房が牧之島城を築城し、廃城となりその後普光寺が移築された。
(現地説明版と信濃の山城と館より)
現在は普光寺の境内となり、西側の墓地横に空堀跡らしい谷が残る。
文安年間(1444〜48)から香坂氏が屋敷を構え、すぐ東側にある源真寺に大永7年(1527)に亡くなった香坂前弾正忠能登守利滋の位牌があるという。
牧之島の香坂氏との関係性や後に姓を上条氏と変えたかは定かでない。(信濃の山城と館より)
病院の北東側にあり、立派な石碑が残る。
周辺は畑となっており、面影はないが、南に少し行った所に屋敷の井戸跡という御前水井が残る。
善光寺の栗田氏の詰城だった。
天文24年(1555)葛山城に拠る上杉謙信に対して、大塚に着陣した武田信玄が旭山城に籠る栗田氏に鉄砲を援助している。
膠着したままで今川義元の下で和議が成立して、破却された。
弘治3年(1557)武田信玄が葛山城を攻め落とすと、4月には上杉謙信が旭山城を再興し拠った。
永禄4年(1561)第4回川中島の戦い以後は武田方に属し、ここを拠点に髻山まで進出した。
(信濃の山城と館より)
麓から山頂は見えるものの登山口までが意外に長い。
北側からの登山道は崩落の恐れがあり立ち入り禁止になっている。
登山口から登ると郭らしいエリアに出て、ここから遺構が続く。
竪堀を1本横切り、少し行くと大きな竪堀が谷へ落ちている。
少し登ると西側に帯郭があり、主郭から大きな竪堀が落ちてきているのを過ぎてさらに郭が続く。
登山道は主郭横の堀切に至る。東側の見晴台まで堀切が3本あり、見晴台からの眺望は素晴らしい。
主郭は土塁に囲まれているが、南側に虎口があったようだが、はっきりしなかったせいか見逃してしまった。
西側には大きな堀切があり、南側に竪堀となっている。
西の尾根側にはもう1本堀切が残る。
南北朝の頃に守護所があり、旭山城か旭城か小柴見城と推測される。
文安3年(1446)小笠原氏の惣領争いで漆田とここで合戦が行われた。
(信濃の山城と館より)
左近稲荷のある大黒山山頂部に残る。
稲荷社の裏側に大きな堀切が残っている。
堀切を挟んだ北側には開口した古墳がある。
標識もないのでここまでの道が難しい。
築城時期は不明で、大岩城を本拠とした、須田満国、弟の満泰、満国の子満親の城と推定される。
(信濃の山城と館より)
灰野峠から明覚山にかけての尾根上に遺構が残る。
少し行った所に土塁で囲まれた広い郭がある。灰野峠の監視のための駐屯地としては最適な場所である。
岩稜を越えると堀切のような鞍部があり、その先に堀切があり、急斜面なため北側から迂回する形で登る。
最近削平されたような場所で堀切があり、そこから急斜面を登ると、尾根上に2本堀切があり、御岳社のある主郭に至る。
堀切を挟んだ西側は平たん地もあって、この辺りはまずまずの広さがある。
尾根を明覚山へ向かうと堀切が1本ずつ2本あって、痩せ尾根の明覚山山頂に至る。
さらにここを下って鞍部の2重堀切を越えて登り返したピークまでが遺構のようである。
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