島津伊作家の居城。相州家を継いだ島津忠良、さらに本宗家を継いだ子の貴久が、
薩州家の実久に対抗するべくして拠った。その子の、義久、義弘、歳久、家久は、
ここで生まれた。
現在は公園となっているものの、多数の城からなっていて遺構は残る。
本丸跡と思われるところには、井戸跡や誕生碑などが建つ。
16世紀初めに築城された。
庄内の乱
(秀吉に昵懇になりすぎた島津家の家臣伊集院氏と主家島津家の確執が原因で、
伊集院忠棟は島津忠恒に殺されたのをきっかけに息子の忠真が蜂起した)
の際、都城城主伊集院忠棟の甥甚吉が在城し篭城し、
島津家の攻撃にも耐え、落城することもなく持ちこたえ、家康の仲介で鎮まった。
その後、廃城となった。
現在は忠魂碑が本丸に立つ。12の砦から成る複合的な城の本城である。
曲輪の跡なども残る。
城山の背後にあった無防備な場所であった。
そこで、砦などは築かれなかったものの、陣が置かれたりして、
夏蔭城と呼ばれるようになった。
西南戦争の際には、激しい銃撃戦が行われた。
現在は城山の裏手の住宅地とTV塔に挟まれた地に、その碑が立ってある。
遺構は特にはない。
嘉慶元年(1387)7代島津元久が東福寺城からここに本拠を移した。
15代貴久の時に内城に移った。
現在は清水中学の裏手にある山で、薮が生い茂り、
その全貌を見ることはなかなか困難。
石塁が綺麗に残る箇所もあり、曲輪の跡なども一部残る。
その後2025年3月に再訪。清水中学校の東側に説明板と入口がある。
概略図はあるものの道はやや藪化しているので、送電線の保線道に従う方が良かった。
南郭群を北上し、西へ転じてすぐに北側に主郭が残る。北側と西側に土塁が残り、
北側に巨大な稲荷空堀がある。
一旦、下り、西側へ進むと南北に走る大空堀にぶつかる。
稲荷空堀との合流点の西側には麓の民家へ下る道もあり、虎口だったか。
稲荷空堀から北側の道は、踏み跡が減ってさらに荒れだす。
土塁の上を北上するが、坂元空掘を土橋で渡ったようだが、どこだかはっきりしなかった。
そこから先は保線道も潰え、道がはっきりしなくなり郭らしい切岸を藪漕ぎすると
最終的に民家裏に出る。
貴久の頃、清水城から本拠地を移した。だが、家久(忠恒)の頃に鶴丸城へ移って、
その後、大龍寺が建てられた。
現在は大竜小学校となって、かつての面影はない。
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