平治年間(1156〜59)に山門院初代郡司千葉種国が築城し、代々本拠とした。
3代秀忠の時、薩隅日三州守護職初代島津忠久を木牟礼城に迎え、これに協力した。
戦国時代に、薩州家5代島津実久の弟常陸介忠兼が新城を築き居城としたが、6代島津義虎に謀殺され、廃城となった。
(現地説明板・亀井山城跡他発掘調査等報告書より)
遺構は、一部道路化し、やや藪化しているものの、土塁や空堀が良好に残っている。
説明板の裏手に広い主郭(郭1)があり、後世に作られた道が付いている。
内枡形の虎口は反対側の南側を向いており、下ると、空堀に出て、正面に虎口を伴う郭(郭2)が残る。
東側にも空堀、土塁があり、回り込んで下り道があり、大手口となっている。
一方、主郭の北側にも5つ郭があり、それぞれ空堀で区切られており、現在は畑と化していたりする。
南側にも郭3があるが、こちらは藪化が激しかった。
北西側に郭6〜9があるが、各郭の間には深い空堀と土塁が残っている。
承久2年(1220)串木野三郎忠道が城主であった。
その後南朝方に属した。文明6年(1474)川上忠塞が城主となった。
天文8年(1539)忠克は薩州家の実久の家臣であったが、甑島に配流後に貴久の家臣となった。
永禄11年(1568)山田有徳が地頭で、元亀元年(1570)島津家久が城主となった。
天正7年(1579)家久と豊久は佐土原に移った。その後は宮之原左近将監、仁礼蔵人が地頭となった。
(現地説明板より)
東側の南方神社を含め、6つのそれぞれ独立した郭が残っている。
登城口から登るとすぐ西側の2つの郭が整備されている。
北側の郭の北側には石塁らしい跡も残る。
空堀は竹薮化したままになっており、
西側の郭に強引に登ると、竹薮であった。
個人の所有地であるため、入場は9〜17時に制限されている。
築城時期は不明。知覧城の出城と考えられる。(現地説明板より)
山頂の主郭には南朝方であった知覧又四郎忠世の彰忠碑が立っている。
麓側から主郭まで時計回りにらせん状に道がついていたようだが、一部後世に公園化で直通ルートが作られたか。
島津氏4代忠宗の三男忠光が佐多氏を名乗り、文和2年(1353)足利尊氏により知覧を与えれ築城した。
応永24年(1417)伊集院頼久が薩摩南部を占領した際に今給黎久俊がが支配した。
がその後、応永27年(1420)島津久豊に和を請い再び佐多氏が城主に戻った。
以後佐多氏の居城であったが、天正11年(1583)11代久慶が川辺宮村に転封となり、島津氏直轄領となった。
太閤検地に伴い、一時、種子島久時の所領となったが、慶長4年(1599)島津氏直轄領に戻った。
慶長15年(1610)12代忠充の時に知覧に復帰し、以後、佐多氏(島津姓)の居城だった。
(現地資料より)
駐車場に案内板があり、東の栫と本丸の間の空掘を進むと登り道があり、本丸と蔵之城の間に出られるが、
この道は後世に作られたものか。蔵之城の麓に説明資料がボックスに入っている。
蔵之城の南側西側は土塁で囲まれ掘立柱の跡が再現されている。
北西側に搦め手口なのか下に下ることが出来、堀切を挟んで、さらに西側の郭へ行ける。
この堀切から北へ下ると駐車場の方へ出るようで、一方、南側へ下ると、
櫓台や土橋が残っている。
一方、本丸の内枡形虎口から入ると石碑があり、東側の土塁がはっきりと残っている。
本丸と蔵之城の南側には、土塁を伴った枡形となっていてここが大手口だったか。
南側の空掘を挟んで南側には、今城と弓場城が空掘を挟んで残る。
本丸と蔵之城の南側の空掘を西へ行くと藪が酷くなり、湿地帯となるようで進むのを断念した。
一方、今城と東の栫の間の空掘を進んでみたがこちらも藪が酷く、下りだす手前で引き返した。
東の栫には登れるが、郭内は藪化しており、なんとか土塁を確認でき下った。
南西部に見ていない郭がまだいくつも残っているが、体力的・時間的な余裕が必要そうである。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。