島津氏の居城。島津貴久はここでザビエルと会見した。 画像の像は貴久の次男、島津義弘。
島津氏によって落城された。駅から見つけるのに苦労した。
島津宗家の本城であったが、島津相州家の島津忠良(島津貴久の父)に、 落とされ、本家に島津貴久が入る。以後、島津忠良は日新公として、 ここ加世田に祭られる。
種子島氏の居城。まさか、屋久島に来てまで城があるとは、思わなかった。 城跡は誰も来ないのか、草木が荒れ放題。
天喜元年(1053)藤原純友から4代目の長谷場永純が築城した。
南北朝時、長谷場氏は南朝方として矢上、中村、上村、谷山氏らと共にし、
出水の山門院の北朝方の島津氏と激戦を続け、
暦応4年(1341)鹿児島郡司矢上氏が籠っていたが落城し、
5代貞久とその子6代氏久は本拠地とした。7代元久の時に清水城に移った。(現地説明板より)
現在は多賀山公園となって公園化されていて、明確な遺構はない。
東郷平八郎の銅像が立つ尾根との間を分断する、道はかつての堀切跡か。
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