上野5



館林城小泉城金山城羽根尾城鎌原城

館林城


館林市【最寄り駅】東武伊勢崎線・小泉線・佐野線館林駅

赤井照康(照光)が弘治2年(1556)築城した。 文明3年(1471)に上杉軍が攻略したという文書もあるという。(現地案内板) その子照景は上杉政虎が関東に進出した際にも従わず古河公方に属した。 が永禄5年(1562)再び関東に出てきた政虎勢に落城された。 その後、長尾景長が城主となった。 永禄9年(1566)箕輪城が武田信玄に落城されると、 由良・長尾・富岡の諸将は古河公方に属するという形で、 北条氏に属した。永禄13年(1570)越相同盟が成立すると、 広田直繁が城主となったが、消息が絶え、長尾顕長が城主となった。 天正12年(1584)小田原で兄である由良国繁と長尾顕長は抑留され、 開城するように迫られるも抵抗し、城主2人が解放され、 金山城は開城したが、館林城は抵抗を続け、茂林寺住持の斡旋で開城し、 顕長は足利に退いた。 その後、北条氏規が城主となり、南条因幡守が城代になった。 天正18年(1590)石田三成勢1万9千に包囲され、 5月30日降将北条氏勝に降伏を勧めさせ、開城に至った。
関東が徳川氏の領地となると、 榊原康政が入った。江戸期に、白河に転封となり、 3年番城、17年間大給松平氏が城主となり、 寛文元年(1661)徳川綱吉が25万石で城主となった。 綱吉が将軍になった後、延宝8年(1680)に綱吉の子、徳松が城主となり、 金田遠江守が城代となったが、徳松が夭折し、天和3年(1683)に綱吉が破却させた。 宝永4年(1707)綱重の子松平(越智)清武、その後、太田氏、松平氏(越智)、井上河内守正春、 その後、秋元氏が城主となり、明治維新まで続いた。 明治7年(1874)大火で焼失した。
現在は、三の丸に土橋門が再現され(左2,3画像)、所々土塁が残っている。 尾曳曲輪跡は稲荷神社が今も残る。

三の丸土塁 土橋門1 土橋門2 本丸土塁

小泉城


大泉町【最寄り駅】東武小泉線小泉町駅

延徳元年(1489)富岡直光が築城した。永禄5年(1562)段階で、重朝は関東に進出した、 上杉景虎に従ったが、その後、天正2年(1574)には北条方に寝返り、 天正18年(1590)秀吉の小田原征伐の際には、 城主秀朝は館林城に入り、留守居役の富岡大学以下30余人は別所で自害したらしいが、 小泉城自体落城したのかよく分らない。(大系より)
現在、東武小泉線の小泉町と西小泉駅の間で、線路のすぐ南側に位置し、 住宅化と公園化、さらに中学校となった部分もあるものの、 本曲輪を囲む水掘(左2,3画像)と、さらに外側を囲繞する水掘の一部(左端画像)が残る。 また本曲輪は東側に橋が架かっていたようであるが、現在は北側と南西部にも 橋が架けられている。また土塁は良く残っている。

外堀 内堀1 内堀2 土塁

金山城


太田市【最寄り駅】東武伊勢崎線太田駅

文明元年(1468)岩松家純が横瀬(由良)国繁に築城させた。 家純は古河公方成氏方に、子の明純は上杉方に分かれ対立した。 明純は廃嫡され、その子の尚純が継いだが、 実権は横瀬氏が握っていた。この頃、太田道灌が訪城している。 尚純勢は、明応3年(1494)成繁の不在に乗じて、 佐野昌綱の援助を得て坂中城から実城に攻め入ろうとしたが失敗し、 横瀬氏と和睦し、尚純は隠居し、昌純が継いだ。 成繁の頃、古河公方義氏に属し、北条方となった。 しかし永禄3年(1560)上杉政虎が関東へ進出した際には上杉氏に従っている。 その後、上杉方として、北条氏や武田氏と戦った。 永禄6年(1563)頃から横瀬から由良と姓を改めている。 永禄9年(1566)上杉方から寝返り、古河公方義氏に従うという形で北条方に属した。 上杉輝虎が閏8月に攻め寄せたが、落城しなかった。 その後、越相同盟のために、北条高広とともに奔走した。 元亀2年(1571)に同盟は崩れ、再び北条方に属し、上杉謙信と争った。 天正12年(1584)由良国繁とその弟長尾顕長はだまされ、小田原に抑留され、開城をせまられたが、 母の妙院尼の元抵抗し、結局国繁兄弟は解放され、金山城は開城、 顕長は抵抗したが屈し、国繁は桐生に移った。 北条氏は高山定重を西城に、北城には宇津木氏を入れ、 天正15年(1587)清水正次を城主として入れたが、 天正18年(1590)秀吉の小田原の征伐の際には放棄されていた。

麓にある、さくらの井戸の横にあるガイダンス施設から登って行くと、 遺構らしい段曲輪などあり、南木戸(1段目最左画像)に至る。 ここから厩郭、御台所郭を経て、実城の本郭となる。 本郭には新田神社が鎮座する。本郭の西側には堀切(1段目左2画像)や、 石塁が残り(1段目左3画像)、裏へ回り込むと馬場郭となる(1段目最右画像)。
馬場郭から藪化しかけている深い堀切を挟んだ北東尾根を下ると、 堀切2本や虎口らしい跡がある。(2段目画像)
実城の馬場郭から北へ九十九折を下ると、 堀切があり(3段目中央画像)、天神山と坂中城への分岐に至る。 東へ来ると坂中城で藪化しており遺構は見づらい(3段目最左画像)。 坂中城から北へ下ると途中長石という自然にできたその通り長い石への分岐を通り過ぎ、 堀切がある(3段目最右画像)。
天神山の方へ行くと、天神山の西側へ下った辺りに、堀切がある(4段目画像)。
5段目以降は車で来て容易に見られるせいか観光客が城跡にしては結構いた。 きれいに復元されたエリアである。 日の池(5段目左2画像)と月の池(5段目左3画像)は異様な感じがした。
西城はモータープールの西側に位置し、食い違い虎口が残る(6段目最右画像)。 その西側に見附出丸があり、土塁(6段目最左画像)や、虎口(6段目2,3画像)が残る。
月の池から下への大手道は現在発掘調査中であった(7段目画像)。
八王子砦をみるべく、浄水池から登ったが、 遺構のない南八王子山(8段目画像)だけと勘違いし、 遺構の残る、中八王子山、大八王子山を見逃してしまった。

実城周辺
南木戸 本郭堀切 本郭石塁 馬場郭
北東尾根
北東堀切 北東虎口
北城・坂中城
坂中城 北城堀切 坂中城下堀切
天神山西
天神山西堀切
実城中心部
三の郭 日の池 月の池と大堀切 馬場下通路 物見台下堀切 西矢倉台堀切1 西矢倉台堀切2
西城・見附出丸
見附郭土塁 見附虎口1 見附虎口2 西郭食い違い虎口
大手口
発掘調査中
南八王子山
南八王子山

羽根尾城


長野原町【最寄り駅】JR吾妻線羽根尾駅

滋野氏の末裔羽尾幸全入道が城主で、 その弟、海野幸光、輝幸兄弟は永禄9年(1566)真田昌幸により、 それぞれ岩櫃城代、沼田城代に任ぜられたが、陰謀により真田昌幸の誤解を受け、 天正9年(1581)に自刃した。(現地案内板より)
病院の横に案内標識があり、それに従って下れば、水の手の虎口に至る。 水の手口は堀切があり(最左画像)、そこを登ると、土塁で囲まれた本曲輪の腰曲輪に至る(左2画像)。 本曲輪の石碑がある所が最高所で、その南側にも腰曲輪がある。 一方、南西へ堀切を挟んで、二の曲輪(左3画像)、さらに下って曲輪が残るが(最右画像)、痕跡は薄くなる。 二の曲輪とその下の曲輪の間の北側に追手口があるらしいが、はっきりしなかった。


鎌原城


嬬恋村【最寄り駅】JR吾妻線万座鹿沢口駅

応永4年(1397)に築城されたと伝わる。 海野氏の一族である鎌原氏の居城で、 永禄3年(1560)鎌原幸重の孫宮内少輔幸景が武田信玄に従うと、 岩櫃城の斎藤憲広の強圧を受け信濃に逃れ、羽尾幸全が入った。 永禄5年8月に武田信玄が落城させた。 天和元年(1681)沼田藩改易により、幕府が治めるようになり、大笹の関守になった。 元和元年(1615)に「一国一城令」により廃城になった。(現地案内板・大系より)
万座川が吾妻川に合流する渓谷を望む突端上に位置する。 三の曲輪手前に「霊城」という石碑があり、鎌原氏歴代の慰霊塔がある。 キャベツ畑になっており、土塁などの痕跡はないが、 二の曲輪との間には、堀切が良く残っている(左4,5画像)。 その先、二の曲輪と本曲輪の辺りは畑にもなっておらず、 テレビの中継所?があるだけで遺構は良く分からなかった(最右画像)。



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