筑後14



浜田城堀切城鷹尾城国見山城西の城

浜田城

みやま市(旧瀬高町)【最寄り駅】JR鹿児島本線南瀬高駅

鷹尾城主田尻氏の家臣、田尻大蔵が城主であった。(瀬高町誌より)
現在はこれといった遺構はないが、住宅地となった周囲をクリークが囲み、一段高くなっている。


堀切城

みやま市(旧瀬高町)【最寄り駅】JR鹿児島本線南瀬高駅

鷹尾城主田尻氏の家臣、福山将監が城主であったが、 天正12年(1594)堀切の住民は大友氏の家臣平井鎮経を迎え、田尻鑑種、福山将監と対抗した。 一時は大友勢の加勢で勢力を振るったが、島津氏の北上で山田有信に攻められ落城した。(瀬高町誌より)
現仁神社の南側、クリークに囲まれた住宅で、周囲よりも一段高くなっている。


鷹尾城

八女市

川崎氏の犬尾城の支城と伝わっているがどうであろうか。(福岡県の城郭より)
犬尾城から南西に一旦尾根を少し下り、送電線を過ぎた辺りから少し登り返し、 しばらく行くと至る。唯一ある案内板から入り別の東側の尾根を誤って下り苦労した。 標識を無視してもうしばらく西側から行って、「C」の標識から入る方が分かりやすかった。 城址は犬尾城のある東側にいきなり大きな堀切があり(左端画像)、 北側は横堀を廻らせ、西端辺りに堀切があり、北側の谷へ伸びている。 西側の帯曲輪からそのまま主郭へと登る道があった。 また北側の横堀の中央部に現在橋が架かっており、城内へ誘導される(中央画像)。 南側には麓へ続く道も残る。 主郭には祠も残っているが土塁などはない(右端画像)。 南側は守りが薄く、本城と支城の関係性があるといわれる東側がなぜか厳重である。 犬尾城攻めの陣城として機能した時期もあったのであろうか。


国見山城

八女市(旧立花町)

山下城主蒲池氏の出城として築城された。 天正15年(1587)筑紫広門が福島に入った際に支城としたが、 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの際に西軍に属したことで没収となり、廃城となった。(福岡県の城より)
高校の農園の南側に位置し、場所は分かりやすいが、荒れていて、藪蚊の多さに辟易させられた。 郭は東にかけて高度を上げていくがそんなに標高差はない。 周囲を横堀が巡っているが、北側は藪で確認できなかった。 南側は急斜面ゆえか一部横堀がない。 東側には細い畝上竪堀が数本あり、竹藪となっているのではっきりとしている。 一方南西側にも横堀に繋がって数本残っている。 西に尾根を下ると、1本堀切が残っている。


西の城

うきは市(旧吉井町)【最寄り駅】JR久大本線筑後吉井駅

妙見城の西に位置する支城というだけで、 城主や築城時期は定かでない。
百年公園からそのまま南下し、果樹園の先で道がなくなり、 一旦果樹園を横切る。 前城だったのか、果樹園となっているが最後部が祠となっている場所があり、 見晴らしが良かった(上段最左画像)。 しばらく果樹園をアスファルトで登り詰め、道が尽きた所から、 藪化した道に入る。植林された地点までが我慢のしどころで、 藪となっているが道は残っており、なんとか杉の植林地点に出て、 そのうち別の口から来たらしい登城路(上段左2画像)と合流する。 登城路は城址まで続くのでまず迷わないが、倒木が多く荒れており、歩きにくかった。 城址手前にいつ作られたか分からないが石塁の様な物があった(上段最右画像)。 城址へは東斜面を強引に登ると、畝状竪堀らしい物があったが(下段最左画像)、 倒木が多くはっきりしなく残念だった。 主郭は円形に近い形で綺麗に成形されており(下段左2画像)、北側に土塁が残っている(下段左3画像)。 西側がやや開いており、1段腰郭があり、そこから下へ下る尾根に堀切があった(下段左4画像)。 一方、主郭の南側は耳納連山に続く尾根に繋がるので、守りが厳重で、 西へ1本横堀があり、その下に土橋を伴う堀切があり(下段右2画像)、尾根への道と繋がっている(下段最右画像)。





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